アンゼラスも聞こえなかったし、タイタンの影も見てはいない。 極彩色の歯車がことりと綺麗な音を立て、ビードロのオルゴールが讃美歌を奏でた。 運命の3女神は聖母の様に微笑みながら、クロトは糸を紡ぎラケシスはそれを測りアトロポスは躊躇う事なくその糸を断ち切った。 彼女達は彼女達の定められた仕事を行い、そうしておれ達はこのうえもなく泣き出してしまいたい世界に放り出された。 サーキースの喉からは最早嗄れた声しか出てきてはくれなかった。 掌をじっとりと濡らす嫌な汗を感じながら、クックリを握っている右手に力を込めた。手を広げろ、ナイフを離せとそれだけを願って。 彼の周囲では野次馬達が叫び騒いでいるがそれらの声はもう随分前から彼の意識に届いてはおらず、ただ自分が繰り返し吐き出す息の音と、名前を呼ぶ仲間達の声と、もう一人の人間の声だけを聴いていた。 ――あいつが来る事は判っていたのだ。そもそもあいつに言いつけられて自分達はこの嘲りの街に滞在していたのだから。そしてあいつの能力も、性格も、自分達はよく解っていた筈だった。 「ッ、やめてくれ…勘弁してくれよ!いやだ――ッ!」 再び彼の体が自身の意思に限りなく反抗して動き、そして再び目の前にいたベラミーを斬りつけた。裏返った声でベラミーの名を叫ぶ。 体の自由だけを奪うならば、いっそ精神の自由も消し去ってくれた方がどれ程優しいかと、先程から何度も思い続けている事を再び思う。これがあいつの狙いなのだと言う事も、既に充分知っていた。 地に倒れたベラミーがあいつに言葉をかける。船員の声。仲間の声を聞いてサーキースは歯を噛締めて憤った。 何だよ何してやがるんだよ、何でまだいやがるんだ馬鹿野郎とっとと逃げろ消え失せろ見るなよせめてお前達だけはこんなヘドの出るパペットショウを観るんじゃねェ。 ベラミーは苦しげに言葉を紡いでいる傷の痛み等まるで感じていないかのように 「いつかあんたのいる場所へ到達する」 あいつはベラミーの言葉を聞き僅かに首を上げて笑い立ち上がった笑いながら去って行くあいつの後姿をサーキースは見たあいつの手が動くのもやめてくれやめてくれやめてくれあいつに手を伸ばすベラミーベラミーの背中が見えたサーキースの左手は大きく振り翳され子どもの頃から追い続けていたベラミーの背中クックリの重さも手伝い半円形に振り下ろされたやめてくれやめてくれやめろうわああァ――――! 断末魔の叫びよりも残酷な赤い静寂 どくどくと流れ出す赤いものが彼の体を徐々に彩っていく中、地に倒れ付したベラミーの手は伸ばされた時そのままに、前方へと伸びたままだった。もう姿も見えないあいつに追い縋っているかのように。 拘束されていた体が一気に解き放たれ、力を失った手からクックリが滑り落ちサーキース自身もどさりと膝を突いた。 体の震えは抑え様もなく大きくなっていき、またサーキースにもそれを抑える気はなかったので、震えは増すばかりだった。 「サーキース!ベラミー!」 駆け寄ってきた船員達にも返事をせず、サーキースは四つん這いのまま何も考えられずベラミーを乱暴に抱き起こした。背中の辺りに回した右手の手袋にぐっしょりと血が染み込んでくる。 ――ベラミーの顔も血に塗れていた。まるで化粧をしたかのように、顔中が赤で染められている。 「あァ…あッ、ベラミー…!」 おれは誰を斬った?誰を斬った?誰を斬った?ベラミーから流れ出る血の代わりとでもいうように、サーキースの顔は涙で濡れそぼっていく。 そうして――サーキースは咆えた。何の意味も持っていない言葉を、引き裂くような声で絶叫し続けた。 「…サーキース」 彼のすぐ傍に立ち、どうにもできないでいたリヴァーズの目にも涙が滲んでいた。 待ってサーキース、と必死に大声で呼びかけたミュレの声も泣くまいと堪えている響きを持つものだった。 「サーキース、動かしちゃダメっ、ベラミーを寝かせて!地面に静かに寝かせて!」 すぐさまミュレは顔を街の人間達の方へ向け、叫ぶ。 「誰か医療道具を持っているでしょう、応急処置の、簡単なものでも!誰か貸して!早く!」 けれど彼等から大分離れて騒ぎを見ていた者達は、誰も動きはしなかった。戸惑い顔や怯えた顔で、囁きを交わし、尚も叫びを上げている者もいる。 ミュレは1番近くに居た、宿屋の主人と思われる中年の男に走りよって、両腕でシャツの襟元を掴んで引き寄せた。 「聞こえたでしょう!? 貸しなさい!」 ひっと首を縮こまらせた男は、蒼白な顔色をしたミュレの目に涙が溜まり今にも零れ落ちそうである事に気付くと、微かに首を縦に振って店に駆け込んでいった。 広場は今や火花が散っているかの様な騒ぎになっている。 喧嘩も乱闘も殺しも娯楽の一部でしかないこの街が、嘗て無いほどのざわめきを帯びている。 ミュレがベラミーの処置をしている間、サーキース達はその騒ぎの中心で、ただそこにいる事しかできなかった。皆、顔からは血の気が失せ、きちんと文章になった言葉が出てこない。 マニにしがみ付いているリリーが、顔をぐしゃぐしゃにさせて泣きながらミュレに訊いた。 「ミュッ、ミュレ、ベラミッ、ベラミー、だっ大丈夫だよね?ねっ?」 「今は…今は応急手当しかできないけど、船に戻れば、ちゃんとした手当てが出来るから」 ミュレは唇を噛締める。――どうしてなの?また楽しく生きていこうって、言い合ってたばかりじゃないの…。 「おれ達はまた見てるだけだった…」 ベラミーが止血されている様を見、周囲の喧騒を感じながら、全ての怒りを込めた低い声でエディは呟いた。 それを聞いたすぐ隣に居た船員の声も、彼と同じ様に震えていた。 「でも、…だけど…っ、僕達なんてどうやってもあの人に敵いは――!」 あァ、と、エディの声が震えているのは、静かな静かな怒りの所為であった。 「あいつにも敵わない…麦わらにも勝てはしなかったろうさ。…それでも、何かする事はできたんだよ。動く事ぐらいは出来た筈なんだよ…」 あの日も今日も、影を縫いつけられたかの様に動く事さえ叶わなかった自分達に、今出来る事も、ただそこに立って見ているだけだった。 サーキースは膝を突いた姿勢でベラミーだけを見ていた。 ポロポロと涙を零しながらも的確な処置を施していくミュレも視界に入ってはいるのだが、彼の意識はただベラミーだけを見る様に命じていた。 そのベラミーの姿も、すっかり視界がぼやけてしまっていて、はっきりとは見えはしなかったのだが。 頬を伝って流れた涙がぽとりと地面に落ちたのとほぼ同時に、サーキースの首も力無く下を向いた。自然に、胸の刺青が目に飛び込んできた。 ――あいつが嗤っていた。 逆さまのままでサーキースを、サーキース達を見下し嘲笑っていた。 サーキースはすぅ…と視界が白んでいくのを感じた。ふらりと機械的な動作で立ち上がる。そのまま離れた所にいて騒いでいる見物人達の方へ静かに歩いていく。 今は唯血の失せた顔でベラミーの傍にいる船員達は、サーキースには気付かなかった。 なっ、なんだよあんた…。 見上げる程の長身のサーキースに腕を掴まれた痩せぎすの男が怯えた声を出した。彼はその手に小型のナイフを握っていた。 何も言わずにサーキースはそのナイフをもぎ取る。男と周囲の人間は、何も言えずそれを見ている。 痩せぎすの男が瞬きをした次の瞬間、サーキースはナイフで自分の胸を切裂いていた。 リヴァーズの耳に、後ろの方から悲鳴が聞こえた。 何だ?と体ごとそちらを見る。そういえばサーキースの姿が見えない。 「…サーキース?」 初めて出逢った時に、彼にライオンを連想させた緩やかなウェーブがかったゴールデンの髪とあちこちが血に濡れた純白のコートが見えた。 サーキースの周りにいる連中が悲鳴をあげているが、あいつは何をしているんだ?後姿なのでよく判らない。右手を何度も何度も左右や上下斜めにに引いている。何をしている?右手に何か握っている。あれは何だ。手を引く度に赤いものが飛び散って――地面にパタパタと落ちて――あれは――― 「Goddamn it!」 罵りの言葉を吐いて、リヴァーズは駆け出した。 きゃあっ! な、何だこいつ! 何の表情もない顔で自分を切裂き続けるサーキースの周囲の人間が悲鳴をあげ次々と飛びのいて行く。 いつの間にかサーキースは膝だけで立っている姿勢となっており、彼の胸は既に幾筋もの赤い線が走り、刺青は殆ど血で覆い隠されていた。 それでもサーキースは自らを傷つけ続ける事をやめようとしない。 消えろ、消えろ、消えろ、テメェなんざ消え失せちまえ――。 一層力を込めて再度斬りつけようとした時、 「――ッうっ…く!」 誰かの手を斬った。 びくりと震え、サーキースの手が止まった。首の後ろから回された小さな手に目を落とし、ゆっくりと首を後ろに捻った。 「…リリー……」 「…サーキース、やめよ、ねっ、ホラ、こ、こんなに痛いんだから…」 彼女の名の百合の様に白く華奢な手の甲から、鮮やかな赤い血が流れ出ている様は酷く痛々しい。サーキースは右手から無意識にナイフを落とし、弱々しく、恐れているとも見える動作で、血が流れるリリーの手を両手で包み込んだ。 彼女の後ろにはリヴァーズもいて、大きく肩で息を切らしている。 「リリー…リリー、なァ、リリー…あいつ…まだ笑ってやがるんだよ、この野郎…」 左手で血まみれの胸にぎゅっと指を立てる。 「ナイフが小さすぎんのかな…」 リリーは2、3度唇を僅かに開いたが、何も言わずにサーキースを抱締めた。少し屈んだ姿勢で、彼の首の周りに回した両腕に力を込める。 サーキースの頬に何か濡れた感触があると思ったものは、リリーの涙だった。 密着している彼女の体からも、必死で嗚咽を堪えている震えが伝わってくる。堪えきれずに口から漏れている泣き声も耳元で聞こえる。 ――消えてしまえば良いと思った。 自分達以外、今すぐこの世界から消えてしまえば良いと思った。 落ちたナイフを拾い上げ、リリーの手を優しく解いてふらりと立ち上がる。どよめく見物人達を空虚な目で見つめ、手の届く範囲にいた男達数人を鮮やかな動作で横一文字に斬りつけた。 うわあァあアッ! ぎゃあ! っの…何の真似だ! 失せろよ、彼はナイフを突きつけて言った。 「お前ェら皆、おれらの目の届く所から消え失せろ」 驚く程の速さで切裂かれた男達、ナイフの先端から滴る赤い血、そしてサーキースの目に宿る暗い狂気的な光が、そこにいた人間達を突き動かした。 ハメルンの男が笛でも吹いたかの様に、広場には彼ら以外いなくなった。 「サーキース…アンタ、――バカ!」 処置を終えたミュレが、サーキースに怒鳴った。道具を持って走り寄ってこようとする彼女を、サーキースは血塗れの手で制した。 「良いんだよこれで…こいつも消えるし、…おれだってこのくらいの傷を負うべきだ、足りねェぐらいだぜ…」 奇妙な程に静かな声でそう言った時、 ガッ! 突然、ロスが地面に突っ伏した。船員の視線が何事かとそちらへ向く間もなく、木製の堅い床に五つの指を突き立てそのままありったけの力を込めて縦に引き摺った。 思わず息を呑む者もいたが、ロスは何度も何度もそれを繰り返した。爪が割れ地面には紅が引かれて行く。 「殺してやる」 悲痛な叫び声だった。 「殺してやる!あの野郎――ベラミー…サーキースを――殺してやる、殺してやる!」 その言葉と共に、頭を大きく振り被り、地に打ち付けて鈍い音を響かせた。 衝撃で帽子が脱げ落ちたが、ロスはその姿勢のまま動かなかった。ヒューイットがそれを拾い、そっと被せ直す。ツバの陰に隠されたロスの目は、涙で滲んでいた。 「許せないよォ…」 船員の一人が、また涙を零した。 「ベラミー達に、こんな事した、あ、あいつ、凄く許せないけどっ、なっ――なんにも出来ないおれ達が、いっ1番許せないよ――」 誰もが――今にも泣き出しそうな顔をしていた。どうしてこんな事になってしまったのだ?… 僅かの時間、誰も喋らなかった。嗚咽と、鼻を啜る音と、風の音と、波の音。 それから誰かが言い出した。もしかしたら皆同じ事を言ったかもしれない。 「船へ帰ろう」 停泊していた船へ着いたのはそれから十数分してからだった。 まだ意識の戻らないベラミーを、部屋に静かに寝かせた。サーキースは尚も構わないと言っていたが、結局彼も胸の傷の手当てをされた。 改めてベラミーの手当てをするミュレと一緒に、船員達も皆その部屋にいたが、サーキースは一人抜け出し、デッキへと足を運ぶ。――傷だらけのベラミーを見ていられないというのもあった。 帆が、よく見える位置に、帆の正面に立ち見上げた。今は停泊中なので帆は巻き上げていたが、その隙間から歪な形でちらりと見えているマークをじっと睨み付けた。 記憶はフラッシュバックする―― 偉大なる航路へと入ると告げるベラミー、驚く自分達、そして同意、ベラミーの言葉「有難う」、それから、 右腕を力強く差し出し、ベラミーは船員一人一人の名を呼んでいった、返事をして自分達もそれぞれ腕を差し出していく、円形に差し出された12本の腕。 これからおれ達は―― 『おれ達は一緒に生きる、笑いながら、だ。そして独りで死ぬな、おれ達はおれ達を独りにはさせねェ――』 全員揃って、力の限り声をあげた。 ――そうだよベラミー、おれ達はお前について来た…あいつの力は認めるさ、思想だって恐ろしく共感できる、すげェ惹かれたさ、だけどおれ達の船長は―― 「たった一人だけなんだよ」 煙草の臭いがした。 「何だお前、何してンのよ」 相変わらず両手をポケットに入れたリヴァーズがブラブラと近付いて来た。 ミュレの治療が一段落着いて、姿の無かった自分を捜しに来ていた様で、部屋のある方に「おォーい、サーキースデッキにいたぜー」と叫んだ。 「もー、サーキース、ふらっとどっか行かないでよねー!」 一人、また一人と船員が部屋から出て来る。皆先程よりも幾分表情が明るくなっており、それでベラミーの容態を察してサーキースは微かに安堵した。1番最後にミュレも扉を閉めて出てきた。 潮の香りを含んだ風が吹き、髪に触れて行った。 「なァ」 帆から目を逸らし、彼は言った。 「帆、下ろそうぜ。何も描かれてねェ帆にしよう」 言われて、船員達は目を丸くした。そして、理解した。戸惑った様に帆とサーキースを見比べ、リヴァーズが言う。 「つってもなァ…いや、そりゃそうだけどよ、つーかズタズタにしてやりてェとこだが、でも」 「良いんだよ」 「おい、でもベラミーは――」 「どうせおれ達ァ捨てられたんだ」 鋭く、そしてどんな感情も読み取れない声だった。 「大体――この船はベラミーの――おれ達の船だ。掲げるマークは一つで良いだろうが。おれ達はおれ達の…ベラミーのやり方であいつのいる場所に辿りつきゃ良いだけだ」 誰とも無く、顔を見合す。そこには、戸惑いと、迷いと、――既に確かな意志があった。 ずっと、サーキースは左手を高く天に翳した。そのまま、前に差し出す。 それは、皆、解った。もう一度、あの時の事をやり直す――。 「――言っておくぜ、このシンボルを外すって事は、…あいつの、七武海の後ろ盾を無くすって事だ」 そこで一度目を閉じ、再び開いた。 「それでも良いって奴だけ、ここに残れ」 バッカヤロ、煙草と共にその言葉をリヴァーズが吐き出した。思い切り勢いをつけて腕を突き出す。 「おれらの数は12人だ、ハナからイスカリオテのユダはいやしねェんだよ」 リヴァーズに続いて遅れる事無く、ほぼ同時に――全員が腕を差し出した。 いつもと変わらず、空は青かった。堪える暇も無く、涙が溢れてきた。零れてしまわない様に、顔を空に向ける。 「――笑って生きる、独りで死ぬな、おれ達は、おれ達を――」 独りにしない。 タナトスが訪れてもカロンの舟に乗ろうとも。アンゼラスも聞こえない、タイタンの影も見ない、フェアリーテイルはそのままに。 虹を見ようとも虹の根元を探しはしない。 誰も涙を拭わずに、いずれ目を覚ますベラミーの事を想って、笑った。 顔を上げると、きらきらと輝くアゲハ蝶が、無数に舞い上がっていっていた。 おれ達の足元にある世界は、どうしようもなく薄暗い所で、綺麗なものはみんな空へと昇っていってしまうのだ。 それでも楽園の林檎を齧り続け、おれ達は自由に思うがままに歩いていく。 裸で放り出された荒野でも、独りでなければ生きられると知っているから。 |
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